伊邪奈美命 伊邪奈岐命 畔分堰神 児安大明神 迦具土神
金沢市大樋町11-1
古くは、大堰宮(おおひのみや)と称され、養老7年(西暦723年)の創立と伝えられるも、縁起・伝来書などが見当たらず、残念ながら詳細なことは伝わっていない。元正天皇(西暦715~724)の時代、諸国に田地の開墾を推し進めた時、越前の国加賀の郡が荒地であったため、大堰堤を造り灌漑の便を良くするとともに、畔分堰神を祀って守農の神として奉斎した。この社地を大堰(おおひ)と言われ、現在使われている大樋という地名の語源とも言われている。その後、乱世の世になりすべての物が荒廃し、旧記をはじめ神領も散逸してしまった。老廃した社殿の相殿に伊邪奈美命・伊邪奈岐命を祀るなか、いつのまにか衆人より児安大明神と呼ばれ親しまれるようになり、産婦の崇敬が多くなった。江戸時代は、僧侶による神社の支配があった時代で、児安神社も真言宗の僧侶が居住しており、本地観音像を安置しており、子安観音の別名で呼ばれていた。子宝を望む産婦や、その子の無事な成長を願う親も多く、それを聞き及んだ、加賀藩主前田利常公も厚く信仰され、前田家に伝わる安産神符秘法を伝授奉納されてより、広く世の産婦に安産神符を望まれる方々に頒布するにつれ社号を児安大明神・児安観音から泰産社(たいさんしゃ)とよばれるようになった。明治5年10月に旧社格で言う村社に列せられた、明年の明治6年に現在の社名『児安神社』の社号に改めた。
お乳不足に悩む母親が多く、今は絶えてしまったが、大樋に吉田何某という家が有り、その主人の夢枕に「新潟にお乳の神様がおいでる、そちらより神様を戴き児安神社に祀れば、乳不足に悩む母親に喜ばれる」とのお告げにより、迷うこと無く、三人の方が、現在の新潟県上越市大字茶屋ヶ原の地に鎮座される乳母嶽神社より、御分霊を賜り明治17年2月に盛大に遷座の儀式とともに現在の地に一社を建立された。
乳母嶽神社の手前に石垣に囲まれ椿の木の元に、丸い石と円錐の石が有ります。この丸い石が「子授け石」とよばれ、子宝に恵まれるよう願いを込めて石をさすり、その手で自分のお腹を撫でれば子宝に恵まれるといわれる。その昔、児安神社に住まいする真言宗の僧侶の妻も、子宝に恵まれず毎日子授け石を撫で続けているうちに子宝に恵まれ、それを伝え聞いた人々が子宝を願い、石が黒光りするほど撫でたと言われた。子授けの参拝は、児安神社社殿前にて子宝を願い、子授け石の前に進み、子授け石を時計回りで三回撫で、その手でご自分のお腹を同じく時計回りで三回撫でる、同じ動作をもう二回繰り返す。
松本 昌篤(松尾神社累代社家松本)
076-252-2381