高皇産靈神 猿田彦神 事代主命 野椎神
金沢市神谷内町ヘ1
今を去る、約1,300年前の天平4年(旧暦3月3日)に創建と伝わる古社の一社です。当時神谷内を中心に付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡くなる人も大勢いたそうです。そうした時に、白髪の老人が現れ『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜよう。』と言うので、住民は老人の教えの通りに行ったところ、不思議にも病気が治ってしまったそうです。そこで、老人は『吾は、ヌヅチの神である、以後祭祀(さいし)(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し、手に持つ杖を地面に突き刺すと、空がにわかに曇ると同時にアマレリ《龍のことか?》が現れ、老人を乗せ天上雲間に消え去ったそうです。そこで住民はその地に神社を創建して、祀(まつ)ったのが、野蛟神社の起こりであると伝えられている。後に、聖武天皇(天平8年)全国的に痘瘡がはやり、当社に祈願して、これをくい止めることができ、それより朝廷からの勅使の参拝があり、以降に痘瘡が流行する毎にご加護があったそうです。その後、社頭は老廃し、幾多の変遷を経て現在の地に移る。神仏混淆の時代毘沙門(多聞天)と称したので、付近の小川を毘沙門川と言ったそうです。
神社名の野蛟を素直に読むと「のづち」となりますが、神谷内のお宮さんでは『ぬづち』と呼ばれています。ヌヅチの「ヌ」は野原の「ノ」と沼の「ヌ」とを合わせた意味であり、「ヅチ」は何々の霊という意味で【野と水の霊】を示すため『ヌヅチ』と読ませたものと考えられるとともに、神社由緒の白髪の老人の言葉とも合ってきます。古来この地域は、河北潟と地続きで沼地も傍あたりまで続いていたものと考えられるので、その【野と水の霊魂】が住民を救ったと素朴に考えたものと思うのが適当であろう。
うらやまし
うきよのきたの
やまざくら
「うらやまし 浮世の北の 山桜」
随行の河合曽良を伴って、大樋口より金沢に入ったのが、元禄2年(1669年)と言われ、桜の季節・・?
広々とした眺めの中の歌であり、現在よりは高台と思う。また、神谷内には「うわの」と呼ばれる所に野蛟神社が有ったそうで、その上り口には「赤鳥居」があった、(現在は境内入口にありますが、)前田の殿様が参勤交代で神社の前を通るときには、必ず駕籠・馬より降りて、神社へ参拝されたと伝わっています。その街道には見事な老松が偉観を誇っていたそうです。
松本 昌篤(松尾神社累代社家松本)
076-252-2381