鹿島坐健御賀豆智命 香取坐伊波比主命(経津主命) 枚岡坐天児屋根命 比売大神
金沢市東蚊爪町ホ100番地1
須岐神社は、元正天皇の霊亀2年(716)に、浅野川河口付近で右岸側の地に創建されたと伝えられている。赤浜八幡神社は、後ほど述べるが、我国を粛慎・刀伊らが再々侵略しようとしてこの地に来襲してきたので、対抗の前進基地として八幡神社を聖武天皇の天平元年(729)に、須岐神社境内に創建され、赤浜八幡神社と唱えている。当、須岐神社は御創建由来の示すとおり、歴代朝野の尊崇念篤く、醍醐天皇の延喜5年(905)より編纂されました延喜格式の巻九・十に所載の神明帳(式内社に該当)に、加賀の国42座(神社)の一つに数えられ、所謂、延喜式内神社である。鎌倉時代には、幕府より当社の赤浜八幡神社に対して社領が寄進された。
室町時代に、一向一揆が発生の、長享2年(1488)に当社の死亡した須岐神社神主長江須賀麻呂を初代として長江姓で19代続きました。以後、歴代神主は、京都の神道管領長上の吉田神社宮司兼任の卜部氏発行の神道裁許状を申請する際に、当社神主は須岐神社・赤浜八幡神社両社神主として申請していた。豪族の高木氏(高桑)五郎が当社の赤浜八幡神社を祈願所として、更に社領を寄進された事により、以後、赤浜八幡神社を崇拝者が増加して当社の須岐神社が衰微傾向となり、当社の須岐神社神主の呼び名が、いつの間にか赤浜神主と呼ばれる。江戸時代には、金沢の町へ出開帳を行い、寄進を求める時にも、赤浜神主としての呼称で行っていた。元和3年(1608)に大洪水が発生して、境内地が浸水して一年中水が引かず、加賀藩の寺社奉行所に移転の要請をして社地を求め、20丁南の地に境内地2000坪・神主宅地200坪・墓地30坪・河原神事浜用地として10坪の社地を拝領して社殿を造営して移転遷座をした。又、社領としては、現宮司の聞き伝えている範囲では「神饌田として正月田・三月田・六月田・九月田」と当社の祭典時の費用捻出としての田畑が在ったと伝える。かつては社領も多く在ったけれども、度重なる洪水被害による社殿修復工事費の捻出に、社領も神饌田のみとなってしまった。
境内にて奉納相撲が行われた際には、境内に生い茂った孟宗竹によじ登って相撲見物が出来る位の状況であったと伝えられている。その後、神主宅地は東蚊爪町ホ100番地に移り、横の土地に遥拝所を建てて祭典を奉仕していた為に、本社・境内地の管理が行き届かなくなり衰微してきた。明治になり、新政府が神社をランク付けした際に、当時の神主長江(齋藤)廣居が須岐神社の由緒正しく、且つ、延喜式内神社である事から、須岐神社の呼称でと唱え、両社を合併して社名を須岐神社とし、鎮座地を現在地に定め、遥拝所を拝殿とし、本殿は浅野川右岸の畔で、ナカエ用水との間に建設し、両殿を繋ぎ現在の社殿様式とした。その後、後継者が絶えたので、親戚一同協議の上で現宮司本嶋家に委ねられた。
本嶋 実千浩
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