応神天皇 少彦名命 春日四柱神 菅原道真
白山市村井町1-1
創設は1300年前、奈良朝時代はじめ大宝2年文武天皇の時代に創設されました。当時は旧本殿の跡より8号線バイパス、樋爪地区にかけて大きな池があったそうです。子供達が遊んでいて、たびたび池に落ちて命を失ったので、村人達は埋めてしまいました。やがて付近の村人達に悪い病気がはやり、農作物も毎年不作となり、大変困りはててしまいました。時に村内の豪士『後に村井備中神九郎と名乗り、代々神職をつとめました』が、この惨状をなんとかしなければと天の神、地の神に日夜祈り続けたといい伝えられています。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと) ある夜、豪士の枕もとに神があらわれ「村人がこのような災難にあうのは前にあった池を埋めてしまったたたりである。いますぐにも池のあったところに神社を建て、国土建設に功績のあった神々をまつれば、ただちに災難から免れて、幸福な日々をおくることができる。私の名前は少彦名命である。」とお告げがありました。翌日、豪士は村人達を集めて、この神のお告げを話しました。早速、神社を建てて少彦名命をたてまつりました。村人達は誠意をもってその神徳に感謝をし、参拝を続けました。やがて悪い病気もなくなり、元のとおり豊作が続いたといわれています。広大な社地と村井の地名 村井備中神九郎は戦国時代の終わり頃から代々神職をつとめました。現在の中村地区の〔シンクロダ〕と呼ばれているところに住居がありました。また、武衛地区の西方に郷田(ゴウデン)と呼ばれるところがありますが、村井備中神九郎の弟がこの付近に住み、豪士として神社につとめていたともいわれています。このことから社地がかなり広かったことが想像されます。そのころ広大な社地には老杉がおい茂り、周囲には再び大きな池ができていました。
この池は川から流れ込んだものか、雨水がたまったものかはあきらかではありませんが、村人達はこの水で作物を作り、飲料水として使っていました。まさに村人達の命の綱、村人達の井戸でした。これが村井の地名の由来です。二度の大火をうけて 寛文5年(1665年)江戸時代、原因不明の出火があり神社が全焼しました。かけつけた村人達は御神体を金沢市野町の神明宮に移しました。そして150年を経た文政10年(1827)に再建されました。朝廷より「本村井神社」の社号を賜わりました。しかし御神体は神明宮におかれていましたので、2年毎に神明宮より移すことを例としました。明治5年4月、村人達が協議して、御神体を元の本村井神社に迎えようと、神明宮の神主に申したて、厳重な儀式の後、元のところへもどることになりました。実に火災にあってから200年も経てからでした。しかし、明治16年12月9日(1883)再び火災にあい、みこし、祭具一切を消失しました。明治20年に再建 村人達は嘆き悲しみました。前よりも大きく立派な社殿を造営することで、敬神の誠意をあらわすことにしました。明治20年に再建され、明治40年には境内社旧八幡社祭神応神天皇、菅原道真を本社へ合祀、境外社旧市杵島姫社祭神市杵姫命を合祀、境外社や稲荷社祭神宇賀御魂をそれぞれ本社の相殿として祀りました。そして昭和10年には本殿が改築されて現在に至っています。近年、氏子各位、篤志家の好意により境内や付属物の大改善、新設がなされました。しかし、社殿はすでに100年を経過しており老朽化が進んでいます。特に昭和の三大台風による老木の倒壊が本殿屋根部分を破壊変形し、そのままとなっています。また社殿基礎部分も沈下部分が最近めだつようになってきました。氏子総代により毎年修復維持管理につとめてきましたが、近い将来には平成の大改築が必要となっています。
水内 征七郎
各神社では神職が外祭等により不在する場合があります。
又、祈祷を受ける場合予約が必要な場合もあります。
076-275-1883